一時期、つい最近まで自分がオワコンだと思っていた。

英語の先生30年目、
何よりも英語の先生をするのが私の生きがいで
一番大切にしていることで喜びでもある。

職場で画期的な解決策を見つけられない日々が続いた。
例えばもう1年半も英検2級に合格しない人を
どうしたら合格させてあげられるのか、
あの手この手を考え出し、あの本この本をたくさん買って
考えられることは全部やった、本当に全部、
後悔しないように。



また例えば、もう目標の試験(英検とか)
に受かった人が次に何をしたらいいのか
英語で古典文学を読むのはどうだ
ツイッターの最新ニュースを使って教材も作った。



そんな状態が3年も続いていると
私はもうなにもできないと思い出した。
あれだけ勉強した英語にもなんだか自信がなくなった、
100人教室で講義したことも、
若さを失った今は再現不可能な凄い技に思えた。
毎日していたことなのに。



いま、その状態から抜け出して3ヶ月、
あの状態は、娘や息子の「学校行きしぶり期」
と重なってみえる。自分にはなにも取り柄がない
そういって布団に潜り込んで出てこなかった2人。



娘が昨日ゲラゲラ笑って言った
「よかったな、娘がこんな完璧なニートになって」
(大学が始めるのは4月から、
 高認合格で卒業要件は9月には終了している。)

息子が昨日言った
「(日本画の)先生が、俺の下書きを
 薄く、とても薄く鉛筆で修正してきた、
 『歪んでいるから』だって。
 俺はそれは『アジ』やと思ってるから
 次にはその線は消して、俺の描きたい線で描く。

 正確な絵なんてデジタルでなんとでも描けるやないか、
 そんなことしてると、絵で食べていけないで」


ふてぶてしいほどだ、少なくとも表面上は。




私と子達の話の同類項は
自分が悪いのではなくて
その場所が合わないのだということ。


そういえば私は4−5年ごとに会社を変わっている、
なんで安定を捨てるの?と実母や義母、
知り合いに尋ねられたその度に繰り返したひとこと



「檻が溜まる」






新鮮な水が入らないため池のイメージ。




今の職場で契約した時、
おお60歳だったか65歳だったか
そこまで使ってくれるんだ、
と嬉しくなった。

80歳を超えた母に
「そんな歳まで使ってもらえるのか、ありがたいなあ」
と言われて
「年取ったあんたみたいな先生、どこも雇ってくれへんで」
とも言われて。


そおやね、そやね、と自分の嗜好なんてものは
握りつぶさなければならなかった、結婚するまでの
私が登場した。



今思えば軽いうつ状態だったのだと思う。
老け込む私を夫が職場近くのカフェに連れ出してくれた。

「みんな、生き生きしてるやろ
 こうやってみんな働いているんやで、いまは」





そこから痛みを伴うマインドシフトがあって
新しい会社に採用されたり
起業することになったりしている現在。


私がオワコンだったんじゃなくて
(私にとっては)その場がオワコンだったんだ、
 オワコン?ちょっと短絡的な言葉だな、違う、
 良いこともたくさんあった、出会いにも感謝している。
 私にとってはその場が卒業すべき場所だったんだ。
 長く居すぎた。
子達の場合も同じ、
子達がオワコンだったんじゃなくて
学校が(彼らにとっては)卒業するべき場だったんだ。


子達の方が私よりずっと早く気づいていたんだ。



大切にすべきは親の教えでも世間の思い込みでもなく
自分のメンタルハッピネス。


自分がハッピーじゃないと
自分の周りの大切な人たちに
あたってしまったり
自分を傷つけたりする。


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2014-07-10





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